お経の翻訳版2007年06月22日 16時54分26秒

 昨年11月21日に「お経の文言」と題して、このブログに書いた。つまり、和尚さんが唱えているお経はほとんどが意味不明の文言で、これを我々は聞かされているだけであり、宗教家として恥ずかしくないのかと。
 お坊さんの中に、これはおかしいのではと思う人が出てきたようである。テレビを見ていたら、あるお寺の若い住職さんが本堂でお経を上げるときに、自分の背後に(つまりは一般檀徒の前に)電光掲示板を置いて、今上げているお経の意味をこれに表示していると言う。
 しかも部品は個々に秋葉原で買ってきて、自分で組み立てたと言うから素晴らしい。訳の分からん文言を言って、お布施をいただくのは申し訳ないと思われたのか、或いは仏の教えを何とかみんなの人たちに知ってもらいという思いからか、これを試みられたことと思うが、現代和尚さんの心意気を見た気がした。

仏事のお経2006年11月21日 13時08分47秒

 常々不思議に思っていながら、何となくやり過ごしていることの中に仏事の時の和尚さんが読まれるお経がある。最近は宗派によっては一部日本文で書かれたお経を読まれることもあるが、大部分は何語かさっぱり分からない文言を歌うがごとく朗々と唱えていただくことになる。有名な般若心経等は解説された本が出ていて、人の生きていく心得が書かれているようであるが、一般的には読経の意味がわかって聞いている人は誰もいないと思う。
 誰にも理解されていないお経を堂々と唱えているお寺さんの気持ちも分からないし、そのような習慣を改めようとしない仏教界のあり方に対しても疑問を持たざるをえない。
 日本人にとって仏教はお葬式を中心とした単なる儀式を取り仕切る一つの様式に過ぎず、人の心の安心や世界の平和を求める所謂宗教的な部分が完全に抜け落ちてしまっているように思う。
 今の世の中では親が子を殺し、子が親を殺すような凄惨な事件が報道されている。世界のどこかで悲惨な戦争が起こり、毎日沢山の人が死んでいる。こんな時にこそ、仏教界は分かりやすい言葉で人々の心に安寧をもたらす様な本来の宗教活動に勤めるべきではないのかと思念する。

人々の言葉2005年08月23日 15時46分36秒

 韓国や台湾のご老人が日本語で話しかけてる光景をテレビなどで見て、日本が過去に行ってきた住民への強制を恥ずかしく感じるのは私だけではないと思います。更に、南の島で、やはりお年寄りが「夕焼け小焼けで日が暮れて・・・」と歌われてしまいますと、もう身の置き所がなくて、文字通り穴があったら入りたい気持ちになります。
 私は若い頃にメキシコで働いていたこともありまして、スペイン語に親しみを持ち、今も細々と勉強しています。スペイン本国から遥かはなれたメキシコで、何故彼らがスペイン語を使っているのか、不思議と言えば不思議な気がしませんか。
 コロンブスによるアメリカ大陸発見に始まり、住民へのキリスト教の布教が始まるにつけて、最初は現地語を勉強していた宣教師も何百もある現地語に業を煮やし、1595年に制定された審議会で全ての原住民にスペイン語を教えることと、現地語を禁止する通達を出したのです。アメリカ大陸はカナダは英語とフランス語が、アメリカは英語が、メキシコ以南では一部ブラジルと周辺諸国のポルトガル語以外は全てスペイン語の国になりました。この広大なアメリカ大陸では全てが現地語が抹殺されて、西洋語になっている現状をどう見たらいいのでしょうか。
 勿論言葉がスペイン語になり英語になることによって、西洋の文化を受け入れやすくなったことは事実です。ですが現地語が失われたことによって、原住民の持っていた文化の多くが失われたことも事実なのです。
 私達日本人が台湾や韓国に、或いは南の島々に進出したことに恥じ入るとしたら、このアメリカ大陸へのキリスト教の侵略は一体何なのでしょうか。