寄付金の闇2013年06月26日 08時32分43秒

 日本人は、いや少なくとも自分自身は「寄付金を納める」ことが苦手である。自分の懐からお金を出すことが惜しいからではないが、何となく得体のしれない闇に向かってお金を送っているような気分になる。

 その第一は(よく言われているように)寄付したお金がどこに行って、何に使われているのかが分からないことである。今回の大震災被害への援助にしても、色んな慈善団体が寄付金を募集していて、それぞれ集めたお金を然るべき団体に配られたのだろうとは思うが、詳細は全く分からない。

 その第二は(これは自分だけがこだわっているのかも知れないが)然るべき組織を通して寄付金が集めるのだから、その業務を行うために多数の人がいり、それらの業務を統制する管理者がいることになるが、この人たちの給料を含めて、この募金に関わる経費がどれぐらいかかっているのが分からない点である。もっと端的に言うと、集まったお金のうち何%が実際の支援に回されているのかが分からない点である。

 欧米の人たちが、気軽に寄付に応じている所を見ると、そんな細かいことにこだわるべきではないのかも知れないし、寄付金の行く先を案じているようでは、本来の「援助」と言う意味からは趣旨が違うのかも知れない。

 しかし、お金を集めると言うことに関しては、このところ頻発している「お母さん助けて詐欺」とどう区別できるのか、難しい世の中になってきているように思う。


近年のバス事情2013年03月24日 21時59分13秒

 この所、マスコミに取り上げられて、誠に嘆かわしいことが多い。学校の先生の不祥事、とそれを隠そうとする教育委員会の体質。また、世の中の悪を懲らしめる立場にある警察や検察による不祥事だけでなく、自分たちの論理でその悪事を隠蔽するような状況が定常化していることに我々国民は大変な不安を覚える。

 所が、近年非常にその態度が改善されて、素晴らしいと思うことがある。それはバスの運転手の挙動である。殊に、徹底されているのは「次に降りる方はバスが停車してから席をお立ち下さい。」と常にアナウンスされていることであり、まだバスが動いている間に誰かが立とうとすると、「止まるまで席を立たないでください。」と叱られることもある位である。

 我々乗客の立場からすると、バスが停まって、降りるのにできるだけ時間がかからないように、つまり迷惑(?)を掛けないようにしようとする思いが潜在的にあるので、どうしても早め早めに行動を起こしてしまうのである。
しかし、確かにバスが停まる瞬間が一番不安定で転ぶ可能性が高いので、止まってから立ち上がるべきであるのは確かである。

 バスが停まって降りる時だけではなく、乗客が乗り込むときにも、その乗客が席に着くまで、バスを止めて発車させないで待っていてくれるのは、見ていてほんとに乗客のことに気を付けていてくれていることが感じられて、素晴らしいと思う。

 昔のバスはもっと横柄で、乱暴な運転であったように思う、これがどうしてこのように素晴らしい変身を遂げたのだろうか。「教育」以外には考えられない。きちっと教育できれば、誰でも素晴らしい態度が取れるのではないだろうか。教育の退廃が嘆かれる。


義援金について2011年05月21日 15時43分42秒

 東日本大震災が発生してもう70日が過ぎようとしている。大津波にのまれた地域では今なお厳しい避難生活が続いていて、一日も早い復興が待ち望まれている。私自身は恥ずかしながら今日現在、まだ義援金を寄付できていない。何となく拠出した義援金がどのように被災者に届くのか見えなかったからである。

 日本全国からの義援金は日本赤十字社を中心に2000億円以上のお金が集まっているというが、この時期に来てもまだほとんど被災者に届いていないという。予想(?)した通りと言えばそうだが、お金を配る側の論理として、出来るだけ平等にしなければいけないということから、被災の全体像が見えない中で、手続きができないというのがその理由のようだ。

 お役人が扱うと、「平等」ということにとらわれるが、義援金を出している側では別に所得に応じて出しているわけでもないし、出したからと言って氏名や住所が記帳されるわけでもない。従って、配る側でも多少の不平等はあって、早く被災者に配ることが大事なのではなかろうか。

 更にいうと、広く平等に配るのは政府に任しておいて、一般からの募金は目的を持った支援団体を名指しして支援してはどうだどうか。例えば、お医者さんのグループとか、食糧を支援するグループとか、親を亡くした子供を支えるグループとか、等々そのような団体に寄付するような形で義援金を出すようにしてはどうだろうか。所詮ボランティア活動というのは平等とはいかないものだから。

  安藤さんが提唱されて、「桃・柿育英会」という震災で親を失った子供たちへの学費の援助団体ができましたので、そこに寄付をしたいと思います。
年額1口1万円で10年間続けることになっています。


バスの中で2006年03月09日 20時56分58秒

 今日のバスはいつもよりかなり混んでいた。私は始発駅から乗ったので、座席を確保できたが、かなりの人がつり革につかまっていた。私の前の座席に若いお母さんが一人の子をダッコし、もう一人の子を座らせていたが、途中の駅で杖をついたお年寄りが乗ってきたのを見て、その子に「あのおばさんを座らして上げましょう。」と言って立たせ、席を譲らせました。この光景を目の前で見て、このお母さんに育てられる子は、多分将来思いやりのある素晴らしい青年に成長するだろうと思いました。  今の世の中で親子のトラブルが頻発してるのを見て、親の一寸したこのような態度が子供の躾に役立ち、まともな人間としての成長に欠かせないものだと思う。

団地の夏祭り2005年08月29日 08時53分06秒

 8月27日町内会の夏祭りが成功の内に終了した。昨年来団地を中心とした町内会の三役の一人としてお祭りの準備から実施に奔走して来たが、台風11号も寸前に通り過ぎて、快晴の中沢山の方々が参加頂いて進めることが出来た。
 約170所帯を9つの班に分け、それぞれの班で模擬店を出して頂くが「やきとり」「焼そば」「冷えたビール」等々それぞれ工夫をこらして準備頂いた。
 私たちの団地はマンション中心なため日頃は各家庭間の交際は限られた範囲に留まっているが、このような夏祭りの機会に共同作業をすることで「顔見知り」を通り越して、「親しい間柄」になっていく。このことが毎年夏祭りを実施している大きな目的の一つである。その意味からも今年は沢山の方々に参加頂いて、大変成功だったと思います。
 この種の共同作業をやる時には「積極的に参画する」いわゆるボランティア的な気持ちを強く持った人がどれぐらいいるかで、うまく行くかどうかが決まって来るものです。又このような機会を通して「自分達の努力」が他の人達に貢献し、感謝の気持ちを感じることで、ボランティアマインドを発見する人も現れます。
 関東地方で近く大きな地震が予測されている折から、このような隣近所の人々の心が繋がっていることと、人に尽くすことの素晴しさを理解している人が多くいることが最も大事なことだと思っています。

ホワイト・バンド2005年08月19日 21時10分34秒

 一週間ほど前に注文していたホワイト・バンドがようやく入手した。幅12ミリぐらいのシリコン樹脂のようなもので出来ている腕輪で、表面にアスタリスクが3個掘り込んである。現在世界で3秒に一人の子供が飢えて亡くなっていること表しているとのこと。
 これを購入することで、多少ともそれらの子供たちへの救済事業に役立てようということと、同時にこれを身につけることによって(赤い羽根と同じように)より多くの人にこの運動に参加してもらう動機付けになればとの意図である。
 このホワイト・バンドは全国に書店で売っているが、現在では人気があってなかなか入手できない。全体としてこの運動が目的とする救済事業にどれほどの力になっているの分からないが、豊かに暮らしている先進国の人たちに、この種の認識をしてもらうことは必要だと思う。

鳩の命2005年08月02日 20時06分47秒

 私たちの団地を見回っている時に、一つの入口で鳩が血を流して羽をばたつかせているに出くわしました。見ていた人によるとカラスに襲われたとのこと。この団地に沢山飛んで来ている鴿(どばと)の一羽だと思い、可哀想だけれども「この暑さだからそう長くは持たないだろうから死んだら始末しましょう。」と話し合って見守ったのですが、2日経っても3日経っても、いつまでもバタバタと動き回っていました。近くに住んでいる大変動物好きの中学生が聞き付けて、鳩を捉まえて、動物病院に連れていって手当てをしてもらいました。
その時分かったことは鴿(どばと)ではなくて、れっきとした伝書鳩で足に認識票が着いていて、飼い主が分かりすぐに連絡をとったら、大急ぎで取りに来られたようです。大事な鳩が帰って来ないので心配されていたようですが、大変喜んで引き取られたとのことです。あまり明るい話題のないこの頃ですが、ホッとするような素晴しいお話だと思います。

敗血症治療の通訳2005年07月22日 14時03分14秒

 先月某日、朝から2つの会議をこなして、夜遅く夕食をとっている時、日頃支援しているペルー人のモ二カから電話で、「今、母の具合が悪くなって救急車で横浜中央病院に着いたが、先生の話が良く分からないので、至急来て欲しい」とのこと。直ちにタクシーを呼んでかけつけた。
 先生の説明では急性の敗血症を発症しており、バクテリアを押さえる薬を投与したが、このバクテリアの出した毒素が血液中にあって、血液透析で取り除く必要がある。しかも今夜の内にこの処置をしないと命に関わる。とのことでこれをモ二カに説明するのだが、何しろ専門用語が良く分からないので大苦戦。
 所が不思議なことに医学上の言葉と云うのは大部分がラテン語からきており、スペイン語もラテン語から来ているために、先生が書かれる医学用語をモ二カは理解出来るのです。(例えば。dialisisが透析と云う意味)私はその専門用語を繋ぎながら、ことの顛末を説明し、血液透析の必要性と、更にはその危険性を含めて話をして、最終的に誓約書に署名する所まで行くことが出来た。早速透析の準備に入り、無事進行した。
 翌日からは医学関連専門の通訳ボランティアが対応されて治療が進んで無事退院出来ることになった。私にとっては日本語の不自由な外国籍の人が死に直面するような病気を前にして、正しい決断をしていただけるお手伝いが出来たことが、とても嬉しい限りです。