指導者の暴力 ― 2013年02月13日 09時35分37秒
女子柔道の暴力的な指導が波紋を呼んでおり、スポーツにおける指導に暴力が必要かと言う論議が盛んである。その論議の中に「どこからが暴力で、どこまでが指導か」と言うようなことを論じている馬鹿なコメンテーターがいるが、まるきり本質が分かっていない。
スポーツを指導するのに「いじめ」や[暴力]はほぼ対極にあるやり方だと思う。つまり、先日も書いたように、各競技にはそれぞれその技量を伸ばすための手法があり、それを十分に習得して、それぞれの選手のそれぞれの状況において、その手法を教え、或いは選手ともども作り上げていくことであり、そこの個人的な感情の入る余地はないはずである。
所が、過去に優秀な成績を残したと言うだけで、指導者に祭り上げられ、(自分はそれなりの工夫をして上達してきたのだと思うが)個性やレベルの違う選手にどうしたらいいのかを全く学ばないで、無暗に精神論だけで暴力をふるうと言うのはもはやスポーツとは言えないと思う。
指導者が指導者としての養成を受けていないのでは、そんなのは指導者とは呼べないのではないか。早急に養成機関を作って、選手にも納得のいく指導ができる体制を作って欲しい。
コメント
_ 甚六 ― 2013年02月14日 23時23分01秒
_ KAJI ― 2013年02月15日 21時07分57秒
甚六さん、全くその通りと思います。スポーツに限らず指導者と言う人は、対象の選手を客観的に観察して、その選手の技能が伸びるように、共に作り上げていく姿勢が必要だと思います。昔軍隊で初年兵が毎日びんたを食らわされていたような、いじめが横行しているようでは立派な選手は育ちませんよね。
殊に、学校では勝ち負けよりもまず人間を磨き上げる教育の場であることを教師は自覚すべきと思います。
先日の女子のアイスホッケーがデンマークに勝って、オリンピック出場を決めた試合を見ていて、、勝負もさることながら、みんなの笑顔がとても印象的でした。あのチームには暴力はないのではと思います。
殊に、学校では勝ち負けよりもまず人間を磨き上げる教育の場であることを教師は自覚すべきと思います。
先日の女子のアイスホッケーがデンマークに勝って、オリンピック出場を決めた試合を見ていて、、勝負もさることながら、みんなの笑顔がとても印象的でした。あのチームには暴力はないのではと思います。
_ toro ― 2013年02月23日 12時28分43秒
私は精神論を否定はしません。
しかし、それを鍛えるのには、方法があるはずです。
よくあるのは座禅です。
私も剣道をやっていましたが、座禅で静かに何にも考えずに、精神を鍛えるということはしました。
しかし、技術指導というのは確かに怒ってもいいと思いますが、どうして叱られるのかがわかるようにしてもらいたいです。
私もよく叱りましたが、ここで技を出さないとあかんやろ。チャンスはここにあったと教えました。
叱られる方が理不尽だ・・・と思うことのないようにして欲しいものです。
それには信頼関係なんですけれどね。
一方的ではない信頼関係です。
しかし、それを鍛えるのには、方法があるはずです。
よくあるのは座禅です。
私も剣道をやっていましたが、座禅で静かに何にも考えずに、精神を鍛えるということはしました。
しかし、技術指導というのは確かに怒ってもいいと思いますが、どうして叱られるのかがわかるようにしてもらいたいです。
私もよく叱りましたが、ここで技を出さないとあかんやろ。チャンスはここにあったと教えました。
叱られる方が理不尽だ・・・と思うことのないようにして欲しいものです。
それには信頼関係なんですけれどね。
一方的ではない信頼関係です。
_ KAJI ― 2013年02月23日 19時38分05秒
教えたことをちゃんとやってなかったら、叱られてもいいと思うのです。ですが、叱るために何で殴らなければならないのですか。そこには微塵も愛情が感じられません。そんなことで指導などできるはずはありません。
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メディアを流し目にしてれば、全く頓馬な議論に終始していて、成長の尽きた輩が依然として分別ありげな指導者然としてる場合が多いようで・・。
「愛の鞭」などと、尤もらしい詭弁を弄して己の感情コントロールの欠落を正当化する如き指導者に碌な人生の達人は居りません。
手遅れながら、そう言う手前も我が子に対しては親の資格が足りなかったことをつくづく自省してる次第です。