私と保険2006年04月01日 13時02分07秒

 私は保健と言う制度が嫌いである。若かった頃には、それでも自分が事故や病気で死ぬときのことを考えて、掛け捨ての保険で死亡したときに3000万だか5000万だかが支払われる1年契約の物に入っていた。確か年間2万数千円払って、事故がなければ半分ぐらいが年末に返ってくると言うようなものだったと思う。  それも退職と同時に止めてしまった。つまり、多少の蓄えも出来たし、退職金も頂いたし、家のローンも済んでいるし、例えここで自分が死んだとしても、家族が困ることはないからである。  だから自分には関係がないが、この所テレビのコマーシャルでも新聞雑誌の広告でも、色んな会社の医療保険とかがものすごい量で溢れている。  医療保険で分からないのは、健康保険があって、(わたしの場合掛かった医療費の1割を負担すればいい)普通でも医療費の30%を払えばいいし、さらに高額の費用が掛かったときにはある限度以上は還付される制度になっている。にも拘らず、ものすごく沢山の人が市販の医療保険に加入しているのが理解できない。  ここからは全く野次馬根性であるが、あれだけ新聞の全紙大の広告やひっきりなしのコマーシャルを流している保険会社は莫大な広告費用が掛かっているはずで、これらを契約者が負担していると思うと、ほんとにどれ位得になっているのか全く疑問であった。

私と自動車(1)2006年04月02日 09時16分10秒

 1965年(S40)31歳でメキシコに赴任することになり、急遽自動車教習所に出かけたが、時間が無くて免許が取れないまま出発することになった。  現地では同僚が迎えに来てくれていたが、その間に路上で運転練習を積んだ。ある日「免許を取りに行くよ」と言うことで、村役場に出かけた。小さな部屋に検査官と医者と書記がおり、同僚と一緒に入っていくと、先ずは住所氏名を聞かれた後、赤い丸が書かれた紙を見せて、「これは何色か」と聞かれたので、「ロホ」と答え、次に黄色、次に青色と聞かれて答えた。後は幾ら待っても実地試験が始まらない。同僚が色々話していたが、「出よう」と言うので「どうしたんだ」と聞いたら、「免許は取れた」と言うではないか。キツネにつままれた思いだった。  現地では下宿から工場まで片道約40キロあり、又休日には日本からの出張者を積んで観光案内していたので、1年間に3万5千キロ走ったことになる。無事故だったが違反は10回ぐらいした。ほとんどは信号無視である。

私と英語(2)2006年04月04日 10時51分57秒

 中学ではそのような事情で殆ど学校で習うことはなかったし、皆のレベルに合わせた授業だったから、3年かかって教科書の一冊半しか進まなかった。つまりカリキュラムの半分しか行かなかったことになる。それでも高校に上がって、それほど遅れているという印象ではなかった。  日曜学校はその後村の教会に発展し、毎週の日曜のミサには出席していた。出席していたと言っても、英語の聖書を持ち込んで、牧師さんが説教される部分を、辞書片手に必死で訳していただけであるが。(それでよく叱られた)  高校に入って、1年のときから受験勉強を始めることにしたが、得意な数学や理科に比べて、受験英語の力がかなり不足していることに愕然とした。そこで、家での勉強の7~8割は英語の集中した。文法や問題集をこなすだけでなく、単行本で「二都物語」や「宝島」(これは最後まで読めなかったが)などの小説も読んだ。それでも最後まで英語の試験が一番自信がもてなかった。  大学では教養課程の2年間、英語を習う羽目になったが、文学書をのべつ幕なしに訳すだけの授業で、今から考えると随分難しい文章だったと思う。殊に、サッカレーの「虚栄の市」(Vanity Fair)などは殆どの単語を辞書で引いたように記憶している。兎も角単位をとらないと卒業できないので、必死で勉強した。

私と自動車(2)2006年04月05日 13時56分32秒

 メキシコの勤務を終えて無事帰国した。取得したメキシコの免許証を持って試験場に行ったら、簡単に日本の免許を受領することとなった。法律上も<海外で取得した免許の切り替えは、海外で免許を受けてから3カ月以上その国に滞在していれば、有効期限が切れていない場合は適正試験だけでその免許に対応する日本の免許を取得できる。>と言うことになっている。  早速中古車を買って運転を始めたが、右ハンドルに変わって戸惑うことが多かった。前進はそれほどではなかったが、バックで道路に出るとき自然に右のレーンに入って困った。それでも地方勤務だったのと、子供が小さかったので、自動車が日常の生活に欠かせない道具として便利に使っていた。  1972年横浜に転勤してきたとき、自動車を持ってきたが、道路はいたるところで渋滞していて、車では中々自由に動けないことが分かった。一方では色んな電車やバスのネットワークが出来ていて、これを利用した方が遥かに便利だし、早く目的地に行けるのである。しかもある期間に車で走った距離を総てタクシーに乗った方が安いことが分かり、家族と相談して、車を手放すこととした。  と言うのが表向きの理由で、本心は車を運転していると、こちらが幾ら注意していても、歩行者を傷つけたり、死亡事故につなっがったりする危険があるわけで、勿論法律的には自賠責や対人保険に入ることで満たされるが、被害者の人生そのものを変えてしまうことは避けられない。自分に他人の人生を換えていいと言う権利はないと考えて、免許証そのものを返上することとした。満40歳のときである。

壊し屋の小沢2006年04月06日 07時35分33秒

 民主党の党首選びで小沢さんと菅さんが戦うようだ。私は日本の政治にはどうしても改革が必要で、小泉さんがかなり思い切った政策を打ち出して来たが、題目は兎も角中身は「骨抜き」と言われても仕方がないような成果しかないように思う。従って、どうしても民主党に頑張ってもらって、本当に改革と言えるような改革を進めてもらいたいと願っている。  そこで小沢さんであるが、これまで色んな政党を立ち上げては壊してきた経緯の中で、彼の言動を見ていると、ワンマンタイプで「文句言わずに俺について来い」式の手法で、議論を重ねてよりよいものにして行こうと言うやり方は苦手のようである。元々日本人は(殊に政治家のように偉い人は)議論をすることが下手で、直に切れて「勝手にしろ!」と言うようなことになるが、小沢さんはその典型であるように思う。  そうでなくても寄り合い所帯の民主党で「いやなら勝手にしろ」的なことを言っていてはまたまた民主党の解体につながりかねない。薄氷を踏む思いで見守っている。

私とタバコ(1)2006年04月08日 10時46分30秒

  学生時代はタバコを吸ってはいなかった。当時はまだタバコが健康上問題であると言う認識はなく、特に男にとって「タバコを吸うことが大人になった証である」ような風潮であったと思う。  会社に入って、付き合い上タバコを吸う必要に迫られたときも本数を吸うこともなかったこともあり、比較的高級と思われていた「缶ピース」のようなものを愛用していた。しかし次第に習慣化してきて、本数が増えるに従って、普通のタバコに移行して行った。フィルターつきが主流になり、「チェリー」と言う比較的強いタバコを長年吸っていた。   自分達で開発した製品を量産するため、地方の工場に出張していた時、同僚から「タバコをやめる方法」と言う本を渡された。 「止めらるものなら止めてみろ!」と言う挑戦だと解釈して、その日から「スパッ」と吸わなくした。(止め方はその本に書いてあるので)かなり苦しかったが、禁煙に成功した。38歳だった。   禁煙期間が一年半を超えて、もう喫煙生活に戻るとは夢にも考えていなかった。当時は製造現場の管理者をやっていて、会社の帰りに「赤提灯」によることも多かったが、ある日何時になく盛り上がっていた。誰かがタバコを勧めてくれたが、私は例によって「もうタバコは吸ってないんだよ」と言いますと、酔った勢いなんでしょうね、「俺のタバコが吸えないのか」と絡んできました。こちらも騎虎の勢で「吸ってやるよ」と受けて立っていました。それが運のつきで一本が二本、二本が三本と増えていって、元の喫煙ペースに戻るのに一月と掛からなかったのです。

小沢党首の政策2006年04月09日 14時52分20秒

 民主党の党首に小沢さんが選ばれた。党首への立候補の演説を聴いても、「政権交代できる政党」と「真の改革」と言うような抽象的な文言しか聞こえなくて、その具体策がよく理解できなかったが、この所各放送局の番組に出て、話しているのを聞いて少しづつ考えていることの一端が見えてきた。  その内、私なりに賛成できそうなものとして「官僚の人数を減らすのではなくて、その力を国益に沿うように働かせろ。」と言うのがあるが、今の政治家にそうさせる力があるのか疑問である。また、世の中の格差拡大に関連して、「基本的に自由競争はいいが、そこにセーフティーネットが必要」つまり弱者を救う仕組みが必要と言っていた。その通りただと思う。これはもう少し考えてみたいが、「日本の会社の最大の特徴は終身雇用と年功序列である。」との主張は自分の会社生活の経験から、一面の真理を含んでいるように思う。   今の所非常に断片的にしか彼の主張が見えないが、少しづつ何をやろうとしているのかが分かってきているように思う。

終身雇用制度の功罪2006年04月10日 15時40分39秒

 先の小沢さんの発言に関連して、終身雇用制度の功罪を考えてみたい。自分が会社にいた頃はこの制度が崩壊する寸前で、その弊害が盛んに論じられる中で、まだかろうじてその命脈を保っていた。小沢さんも指摘しておられるように、この制度で身分が保証されている代わりに、会社へのと言うのか、組織への忠誠心があって、無理な仕事や困難な仕事も何とかこなしていた所があった。そのような制度が崩壊していく過程で、殊に会社が収益改善のためにリストラと言う解雇手段に手をつけた途端に、従業員の心が会社から一斉に引いていくのを垣間見てきた。
 終身雇用を経理的な側面で捉えると、本来沢山の製品が売れ、これを作らなければならないときには、人を沢山雇用することになるが、一旦不景気になって人を必要としなくなっても、(定年まで解雇できない)その人件費を抱えることになる。つまり、人件費は固定費であって、変動費ではない。(少なくとも自分が会社にいたときはそう教わった)戦後の右肩上がりの時代はどんどん会社の規模が大きくなっていたので、余剰人員は出にくく、又配置転換等で容易にこれを吸収することが出来た。端的な例で言うと、技術開発で今まで100人の人で生産していた製品を10人で出来るようにしたとしても、余った90人の人がいる限り、コストは安くはならないのである。  従って、自分が製造の管理者をやっていたときは、何を置いても、手持ちの従業員が目一杯働ける仕事を取ってくることが最大の仕事であった。一般的には今の世の中では、探しても中々仕事が見つかるような状況にはないと思う。今でも例えば自動車会社のように事業が伸びている会社では終身雇用を保障して悠々とやっている会社はある。十分な仕事があるからである。
 役所と結託して談合でうまい汁を吸っているような企業は兎も角として、世界市場でギリギリの競争をしていくために、終身雇用のよさとをどのようにマットさせていくかはそう簡単ではないように思う。

私とタバコ(2)2006年04月11日 21時04分41秒

 当時医療関係部品の開発を担当していたことから、アメリカの会社に売り込みに行った事があった。会議室に通されて、先方の出席者が十数人いたと思うが、日本では当たり前の机の上に灰皿が置いてなかったので、「タバコを吸っていいか」と聞きましたら、「いいよ」と言うので、「灰皿は」と聞きましたら、一人の若者が、いかにも馬鹿にしたような顔をして部屋を出て行ったと思ったら、錆付いた缶詰を汚らしい手つきで持って、入ってきた。そして、全員から強烈な侮蔑の眼差しを受けたのである。十数人いた関係者は誰もタバコを吸う人はいなかった。
私はそのときほど恥ずかしい思いをしたことはなかった。要するに「タバコなどと言うものを吸っている奴は常識はずれの人間である」と言われているように感じた。
いよいよ二回目の禁煙を覚悟した。1980年4月1日を期して決行することとした。かなり強烈なモチベーションがあったとはいえ、ニコチンの習慣性と戦うのは決して楽ではなかったし、ともすると弱気になる気持ちを奮い起こして、頑張った。前に一本吸ってもとに戻った経験があるので、今度は絶対に吸わないことをモットーに励んだ。そのとき46歳だった。爾来26年一本も吸わずに今日まで辿り着くことが出来たのである。

小沢さんは古い体質2006年04月13日 13時59分13秒

 小沢さんが民主党の党首に選ばれたことで、小泉さんが彼こそ古い時代の自民党の体質を受け継いでいる人だとコメントしていたが、何となくそうかなと思う点がある。
 党首に就任したときの演説で、「政権交代することが目標で、政権交代するためには過半数の議席を取ることである。」(そんなことは分かりきっていることだが)そこで小泉さんよりもすごい政策を出して、国民を引き付けるのかと思ったら、「要するに選挙に勝つということであり、そのためには普段から自分の選挙区をこまめに回って、選挙に備えろ」と言うことだったようだ。
 まだまだ田舎ではそのような色彩があるが、小泉さんが郵政民営化をうたって、新人候補を全く地縁のないところに送り込んで、勝利したことを思うと、もはや地縁血縁、つまりつながりで戦う選挙はもう古いのではないだろうか。
 千葉の補選で小沢さんが先ず打ったことが、地元の建設業界や何とか団体への根回しだったと言うのは何とも古い体質の自民党的で心寒い思いがしている。